興福寺三百年前の大伽藍 特集U

【興福寺南大門に立つ】

〔300年前の古地図による興福寺伽藍図〕 
その頃の大和・・・南のはてに屏風のように大峰の山々、手前20キロ先にかすむ、奈良時代以前の都があった藤原京跡、その南側には飛鳥の里。南西方向には金剛・葛城・二上の山々、西には生駒山が長く横たわる。
 大和は広い。その多くが興福寺の領地だった。南西方向6キロ先には豊臣秀長が築いた郡山城がそびえるが、柳沢吉保が藩主になるのは数年先のことだ(1713年)。その北側に千年近く立つ薬師寺東塔がかすむ。唐招提寺は森の中。その手前こそ、奈良時代の都平城京だったが、今は一面田んぼが続いて土の底に埋もれる。
 

奈良町・・・南大門から町を見下ろすと、猿沢池の南に柳生藩の蔵屋敷が並び、桜井、吉野、伊勢につながる上街道が、商いでにぎわう奈良町を南に抜ける。奈良時代は池から南がすべて元興寺の伽藍だったが、平安時代から衰退し、室町時代の一揆で伽藍の大部分が焼失、残った五重塔と極楽坊の屋根だけが千年昔を偲ばせる。
 門前の道は三条通りで、西方はるか西の生駒山の南側にある、暗がり峠を越えて摂津につながる。寺の東側からは、山城の国から京の都につながる京街道、池の東からは、柳生街道が滝坂道を上って行く。興福寺は再建された東大寺とともに大和巡りの原点、国中から見物衆が年間50万人も押し寄せて宿も足らず、民家に泊まるか野宿するほどに賑わっている。土産に墨や筆、晒し、扇子から刀剣、奈良暦まであって奈良町の商いも大繁昌だ。
 

興福寺伽藍・・・三条通りに面した南大門が、五重塔・南円堂と並んで猿沢池に映えている。中門の奥には、回廊に囲まれた中金堂、その奥に講堂とそれを囲む僧坊・経楼・鐘楼、西側に手前から南円堂、

 西金堂、藤原不比等を供養する北円堂、手前西側に一段下がって三重塔が並ぶ。東側に五重塔・東金堂・食堂、大炊殿・大湯屋と続き、その背後にも諸院が二条通りまで並んで、500m四方を塀が取り巻く大伽藍だ。 
中金堂・・・平城京遷都後最初に建立(714年)され、6度の火災で南北朝に再建(1347年)された。裳階(もこし)があって、二層の屋根に金色の鴟尾が輝く本瓦葺で、正面9間・側面6間(36.6X23m)の大きな金堂だ。鮮やかな朱色の柱が前面に並び、唐招提寺の金堂をしのぐ列柱空間が美しい。 

西金堂・・・西方に光明皇后が建立(734年)し、室町時代に再建(1398年)された西金堂が建つ。
創建時の漆造りの諸仏の多くが、重なる罹災にも運び出され、釈迦如来を囲んで阿修羅をはじめ八部衆や十大弟子が堂内に並ぶ。
仏様で埋まる内陣だ。

東金堂・・・聖武天皇が建立され(726年)、室町時代に再建(1415年)された東金堂が、奈良時代の建築様式を見せる。薬師如来を囲んで、日光・月光銅像、文殊菩薩と維摩居士が坐る。

北円堂・・・藤原不比等を追悼して元明・元正天皇が、長屋王に命じ、平城宮を見守る如く建立させた美しい八角堂(721年)。鎌倉時代に再建され(1210年)、堂内には運慶による弥勒仏が坐し、兄弟の無著・世親像が立つ。
 南円堂・・・三条通りに近く、平安初期に藤原冬嗣が建立(813年)し、室町時代に再建の南円堂が、西国
33ケ所めぐりの第9番札所として賑わっている。
鎌倉再建による、康慶の不空羂索観音像と法相宗六祖の木像が、四天王に守られて坐るが秘仏と聞く。

五重塔・三重塔・・・光明皇后が建立(730年)した、奈良様式の三手先の組物で再建された(1426年)、50mの五重塔がそびえ、大和の旅の目印だ。三重塔は、平安後期皇嘉門院が建立(1143年)、鎌倉初期再建されたが、初重が大きく、初重の板壁に千体仏が描かれ、のちに弁財天15童子を安置と聞く。